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尼子 経久(あまご つねひさ)は、戦国時代の武将・大名。出雲守護代。本姓は源氏。陰陽十一州の太守と称された。
曾祖父尼子高久の代で姓を京極から尼子に改める。高久の子尼子持久(経久の祖父)の代に出雲の守護代に任ぜられ、出雲に下った。経久は、初代の高久から数えて四代目に当たる。
安芸の毛利元就と備前の宇喜多直家と並ぶ一流の策略家として知られている。関東の戦国大名北条早雲と同じ時期に下克上を起こし、戦国時代の先駆けとなった。
出雲月山富田城(現・島根県安来市広瀬町)を本拠とする尼子清定の嫡男。官名民部少輔。
少年期
長禄2年(1458年)11月20日、尼子清定の嫡男として生まれる。幼名は又四郎。父の清定は守護代で、出雲守護が京極持清の時は、一揆を鎮圧し、隣国の山名勢の侵攻を防ぎ、十神山城の松田備前守の討伐、文明2年(1470年)には、三沢対馬守を中心とする国人連合の謀反を鎮圧するなどの目覚しい活躍をした。しかし京極持清の死後、子の京極政経が守護となってからは、失望して戦国大名への道を歩み始めることとなる。
又四郎は、母(真木朝親の娘)の元で厳しく育てられた。父の清定は、戦陣に明け暮れた為に、又四郎と触れ合う機会が少なかったものと思われる。母の教育により、やがて文武両道の武将として成長していくのである。
文明6年(1474年)、主君・京極政経に約六年前に行った出雲平定戦以来、領地を治めているという事を報告する為、人質として政経の元へ送られる。又四郎は、この時17歳で、既に父・清定の片腕になっていた。この頃から勇猛果敢な武将だと称される程であった。又四郎はこの後、5年間京滞在する。京の優雅な文化の中で生活し、滞在中に元服し、京極政経の経の字を賜り、経久と名乗る。五年目に、京の滞在生活を終えて、祖国出雲に帰国する。
家督継承から出雲統一
文明10年(1478年)までに、経久は父から家督を譲られた。しかし、野心逞しい経久は、幕命を無視して室町幕府の四職で出雲守護でもある京極政経の寺社領を横領し、美保関公用銭の段銭の徴収を拒否などを続けた。その為、幕府、守護、国人からも反発を受け、文明16年(1484年)に居城を包囲され、守護代の職を剥奪されて出雲から追放された。これに参加したのは、三沢氏を始め、三刀屋氏、塩冶氏、桜井氏などの有力国人である。東の国人衆を評価し過ぎた為、西の国人衆の反感を受けたのである。
幕府と主家から追放された経久は身を隠した。出雲西部の不動産
とも百姓の家とも、母の里の真木城に身を寄せたとも言われている。弟の孫四郎(後の尼子久幸)は、安芸の守護、武田氏の元へ預けられた。長い放浪生活の末、追放された翌年の10月に、旧臣の山中氏・亀井氏・真木氏・川副氏らを糾合。さらに必死の願いによって鉢屋衆賀麻党を味方とした。その結果、兵を総勢100人余にまで膨れ上がらせた経久は、月山富田城を奪還する機会を窺った。
文明18年(1486年)元日、鉢屋弥之三郎率いる賀麻党70人は、恒例の新年を賀して千秋万歳を舞う催しに招かれた。深夜であったが、場内の者は芸能を見て楽しんでいた。二の丸などに子や妻や兵が集まった。兵の気が緩んでいる内に、経久は大晦日から富田城の裏手に潜み、火薬の詰まった武器を轟音発して城内の者を驚かせた後、賀麻党の手引きにより城中に切り込んだ。経久は、周囲の者を女子構わずを斬りまくるという奇抜な作戦をとり、城内は、大混乱となり、兵を立て直す事が出来なくなっていた。この奇策により、城将塩冶掃部介は妻子を殺害し自害して果てた。この戦いで尼子勢が討ち取った首は、700といわれている。尼子方は大人数討ち取ったものの、死者が出ていなく大勝利を収めた。討ち取った首は富田城の麓にある飯梨川の浜辺に置き、さらし首にした。このやり方から経久は、鬼と称された。これにより経久は城主に返り咲き、京極氏から独立した。
長享2年(1488年)、経久は策略を授け、出雲の国人山中勝重を三沢氏に従属させた。2年後の延徳2年(1490年)に山中勝重が経久を討ちたいと主人の三沢為忠に言って、三沢の軍勢700人余りを率いて、富田城の麓まで来た。勝重は、用があるなどの嘘をついて、富田城に入り、三沢勢に休息を取らせて隙を与え、そこを尼子勢が急襲し三沢勢を討ち取った。三沢勢は、700人中、100人しか帰れなかった。こうして三沢氏を始め、三刀屋氏・赤穴氏など他の有力国人達も次々と経久の軍門に降り、出雲国内は統一された。こうして尼子氏はFX
での最大勢力へと成長していった。この後、京極氏は急速に出雲での勢力を失っていく。
京極政経は近江でのFX
に敗れて、出雲へ下向した。そして子の孫童子丸を預けるという書状を書き残し、出雲の安国寺で生涯を終えた(享年50)。主君京極政経の没年永正5年(1508年)に、経久は正式に出雲守護職に任命された。そして守護就任に伴い、幕府から京を荒らしている三好氏の討伐の命令が出された。経久はこの命に応じ、すぐさま三好氏を京から敗走させた。
大内氏との抗争
永正8年(1511年)、経久は大内義興の軍に従軍して上洛した。京都では船岡山合戦に参加。この合戦で経久は数々の功を立てたが、何の恩賞も与えられなかった。経久は大内義興より先に帰国し、大内氏の留守を狙って、安芸に侵攻する。経久は安芸守護武田元繁を大内氏から離反させ、永正9年(1512年)には備後の国人で大場山城主古志為信の大内氏への反乱を支援している。尼子経久の不穏な動きを鎮圧するため、山城国守護、管領職へと任命された大内義興は山口へと帰郷した。
永正15年(1518年)、経久は弟の久幸に伯耆国のFX
を攻めさせる一方、嫡男・政久を叛旗を翻した桜井入道宗的の籠もる阿用城へ差し向けた。しかしその最中、政久は矢に当たって命を落とした(享年31)。
この知らせは経久の元に届き、それを聞いた経久は、久幸に撤退命令を出し、自ら7000余人の兵を率いて、阿用城に向かった。弔い合戦と称して総攻撃を加え、城内の3000人を虐殺し、城主の桜井宗的は火の中で自害した。帰着した経久は、軍議を開いて、久幸に家督を譲ろうとしたが、久幸は、直系の孫の三郎四郎(後の尼子晴久)を跡継ぎにするべきと主張。結局経久は三郎四郎を後継者に決定した。
大永元年(1521年)以降、先物取引
は石見に侵入した。安芸へも手を伸ばし、大永3年(1523年)には大内氏の安芸経営の拠点である鏡山城を攻め、重臣亀井秀綱の命で、傘下の毛利元就と当主毛利幸松丸に攻城させた。元就は策略を使い、城主蔵田房信の叔父、蔵田直信を寝返らせ、城主の蔵田房信は自害し、鏡山城は落城した。後、直信は、何らかの理由よって殺された。
大永4年(1524年)、経久が軍勢を率い、西伯耆に侵攻し、南条宗勝を破り、更に守護・山名澄之を敗走させた。敗北した伯耆国人の多くは因幡・但馬へと逃亡し、南条宗勝は但馬山名氏を頼った。これが後に言う大永の五月崩れである。同年、大内義興・義隆父子は陶興房ら重臣を率いて安芸に進出し、尼子氏と激突した。この戦いで、安芸の有力国人である吉田郡山城主毛利元就が、自力で大内軍を敗走させるなどの目覚しい活躍をした。その後、元就は弟の相合元綱との内紛の後、尼子との関係を解消して大内氏に所属を変えた。これにより、尼子氏に傾いていた安芸国の勢力バランスが変わることになった。毛利氏の離反は、毛利氏の後継争いに尼子家臣・亀井秀綱が介入したことが大きな原因とされている。